あの日

明日は3.11。

もう「あの日」から5年が経つ。

被災者の私でさえ忘れそうな記憶なのだが、「あの日」微塵も揺れを感じなかった方々はどうだろうか。

断片的ではあるが、まとめておこうと思い、今回は3.11をテーマに書く。


私は卒業式も終わり、後は大学入学までのんびり過ごすだけだった。
引越しの準備をしなくてはいけないのに、面倒でダラダラと自室で映画を観ていた。
映画は確か、『アリス・イン・ワンダーランド』だった。
父は会社、母と妹はホワイトデーの買い出し(バレンタインのお返し)に出かけていた。

14:46。
非常に大きな揺れ。
大きな地震が続いていたので、「またか」という思いで平然と映画を観つづけていた。
次第に本が降ってくる。勉強机に立てかけられた全ての本が崩れ落ちた。
台所からは食器が割れ、床に散らばる鈍い音が鳴り響く。

長かった。かなり長く感じた。
『マンション崩れたら7階だし死んじゃうな』などと考えていた。

外から人の悲鳴が聞こえ、さすがに尋常ではないと気づき、とりあえず玄関を開ける。

玄関を開け、テレビをつけようとリビングに向かう。
が、付かない。
当たり前だが、停電していた。

埋もれた本の中から携帯を取り出し、とりあえず母に電話する。しかし、繋がらない。

しばらくすると叔父から電話がかかってきた。

宮城が震源らしいということ、母と妹は無事だということ、それだけ聞き、電話を切った。

正直、その時は「なーんだ、ここが震源か。大したことない地震だったわ」と思った。

この後海岸側が津波によって大惨事になってしまうとはつゆ知らず…。

この後も、何度も揺れは続いた。

母と妹が帰ってくる。

妹が大激怒。
「お姉ちゃん!!!何度も電話したのに、何で出ないの?!?!死んだと思ったじゃん!!!!」と。

「私だってかけたよ〜何度もかけたけど、繋がらないんだよ〜」と返した。

とりあえず、母は台所の片付け。私は買い出しに行くことにした。

近くのスーパーはやっていなかった。
コンビニも、しまっていた。
しばらくマンション付近をまわっていると、薬局が開いたと噂が流れてきた。

薬局に行くと、すでに長蛇の列。
なんてったって、レジは手動。

「オムツください」
「ちょっと待ってくださいね」
言い方は悪いが、ゴミ屋敷のような店から、お客さんの欲しい物を探し出す。
「袋のここ、破けてるんですけれどいいですか?」

お兄さんは家族や友人からかかってくる電話に出ながら接客をしていた。

私は水、食料、電池を求めていた。

水は、すでになかった。
穴の開いた2ℓペットボトルが、水を垂らしながら哀しく倒れていた。
食料はカロリーメイトのようなものを家族分買った。
電池もなかった。

前に並んでいた人と話していると、持っていた水を一本分けてくれた。

電池はどこに行ってもないという情報をもらった。

数少ない戦利品(?)を手に、家に引き返した。

マンションの前で、父と会った。
父は泣いていた。
私の携帯が繋がらないから、死んだと思ったらしい。

父は会社から2時間歩いて帰ってきたという。

高校時代に特に仲良くしていた子たちと安否確認をし、みんな無事ということがわかり一安心。

「あの日」の夜は、家族みんなでテーブルを囲んだ。

真っ暗闇の中。懐中電灯の光だけが頼りだった。
父が、パソコン付属のテレビを持ってきた。

「おい。大変なことになってるぞ」

その時、津波があったことを知った。
テレビの画質が悪かったのも相まって、全く理解不能な世界だった。
大したことのないと思っていた「あの日」は、とてもとても大変な「あの日」に変わった。

いつでも逃げられるように、靴を履いて眠った。両親はずっと起きていた。
私と妹は、震える体を寄せ合いながら、一つのベッドで眠れない夜を過ごした。


「あの日」はかなり鮮明に覚えている方である。それ以降の記憶はとても曖昧で、時系列も入れ替わっている可能性があることをご了承願いたい。


翌日の朝、部屋の片付けと水を求めに行った。
大きなゴミ箱と大きなバケツ。
幸い、マンションの貯水タンクから水をもらうことができた。
マンションの目の前で配給だ。本当にラッキーである。
それでも、エレベーターが使えず7階まで階段を登るのは辛かった。
父が一番重いゴミ箱に入った水を持って、私たちもそれに連なって、何度も往復した。
ようやく、安心してお手洗いに行くことができた。

携帯の充電もなくなり、みんなと連絡が取れなくなった。


このあたりまでは良かった。まだ頑張ろうと思えた。しかし、この後マンションの貯水タンクがゼロとなり、遠い配水所へ行かなくてはいけないこととなる。
また、お風呂にも一切入れず、温かい料理も食べられず、お手洗いも制限され、家族みんながイライラし始めた。


母が「今日も水を汲みに行くよ」と声をかけると、家族はみんな面倒だと行った。
妹にいたっては、「もういやだ!!」と言う。
すると母は少しヒステリックになって、「じゃあどうやって生活していくのよ?!お手洗いも行かないでよ!!」と叫ぶ。

端から見ると母がとても可哀想に見えるのだが、それでも私は妹に同情する。
本当にこの生活は限界だった。水やタオルで全身を拭うも、髪は脂ぎってしまい、不潔という言葉がぴったりの体と成り果ててしまった。
確か、この辺りで震災後初めて泣いた。
なんでこんな惨めな思いをしなきゃいけないのか、なんでこんなくだらないことで家族が喧嘩しなくてはいけないのか、訳がわからなかった。


しばらくして、近くの小学校でも配水が行われることとなり、だいぶ楽になった。
(後で知ったことなのだが、3.11の夜は、マンション中の人がこの小学校の体育館に避難していたらしい。マンションにいたのは私たちくらいだったという、、。)

小学校での配水のボランティアの張り紙があり、行ってみることにする。

バケツに水を入れ、お菓子や果物と一緒に渡す。

多くの方に「ありがとう。お互い頑張ろうね!」と声をかけて頂き、元気が出た。
お菓子や果物も、近くのお菓子屋さんや近所の果物屋さんが寄付してくれた物だと知り、人の温かさを感じた。

電気も通り、携帯が使えるようになった頃、卒業したばかりの高校では安否確認が行われていた。
一番被害の酷い地域に住んでいた子がgoogleの人捜しに名前が載っているのを知ってからは不安な日々を過ごした。(幸い、三月末に彼女が無事だということがわかった。)


お風呂事情だが、本当に2週間近くは湯に触れられなかった。
三回ほど外でお世話になったのだが、
1度目は、美容院のシャンプー。
オール電化の美容院で、シャンプーのみ。
2度目は、近くの温泉。
朝早くから整理券をゲットするため並び、垢だらけの真っピンクの湯船に浸かった。
3度目は、父の部下のオール電化の家。
家族全員入れてもらった。湯船にも浸からせてもらった。

その後も私が引っ越すまでガスは通ることはなく、祖母の家で久しぶりに気兼ねなくゆっくりとお風呂に入った。


みんなが引っ越す直前に、高校時代、非常に仲が良かった4人で集まろうということになった。
4月から、2人は関東、私は関西、もう1人は中国地方とバラバラになってしまうのだ。
待ち合わせ場所は仙台駅。地下鉄は通っていた。
駅の繁華街の道はボコボコ。タイルは割れていた。大きな時計は14:46を指して傾いて倒れていた。
当然だが、どこの店も閉まっていた。
やっとの思いで見つけた小さな喫茶店。
みんなでカレーを食べた。「あの日」について語り合いながら…。
みんな大学生活頑張ろうねと励まし合い、解散した。


私は本当にラッキーだったから、しばらくはマンションの貯水タンクを使えたし、お風呂を貸してくれる人がいたし、食べ物だってなんとかなったし、何より家族が無事だった。
家族の安否もわからず1人震えながら避難所で一夜を過ごす子どももいたそうだ。

しかし、その「ラッキー」が私を長年苦しめていた。私なんかが3.11を語っていいのだろうか、辛かったと吐露していいのだろうか、という思いが大きかったのだ。
津波で生きるか死ぬかの狭間だった人、大事な人を失った人、そんな人がいる中、私みたいなちっぽけな苦しみで「辛かった」なんて言ったら罰当たりな気がしてならなかった。

だから、引っ越して、「宮城から来たんだって?大丈夫だった?」と言われるたびに、「大丈夫だったよ」と平気な顔しかできなかった。

引越し前に会った3人も、みんな「辛い」とは言っていなかった。

しかし、大学二年生の夏に行った震災ボランティアでその考え方は変わった。
石巻の方々と関わるうちに、被害の大きさと精神的な辛さは必ずしも比例しているわけではないのだ、私も「辛かった」と言って良いのだと思った。「あの日」から抱えてきたものはみんなみんな一緒だった。


人の記憶というものは次第に薄れていってしまう。こればかりは仕方がない。
だからこそ、こうして何らかの方法で書き留めて、「あの日」のことをしっかり覚えていたいと思う。