渡辺淳一著『光と影』をよんで。

あの時、すでに勝負は決まっていたのだ

運命の歯車は思いもよらないことがきっかけで動き出す。
あの時の気まぐれがなかったら、あの時の順番が違ったら、今の人生は全く別のものになっていたかもしれない。


『光と影』は、歴代総理大臣である寺内正毅の東京教導団時代の同期、小武敬介(実在した人物かは不明)にスポットを当てた物語である。

西南戦争で右腕をピストルで撃ち抜かれた寺内と小武は、同じ日時に同じ場所で、同じ右腕を、同じ軍医から切断されることとなった。

手術は小武が先で、寺内が後。

小武は手術前に

「一番目も二番目も同じだ」

と話していた。
この順番が人生を大きく変えてしまうとはつゆ知らず…。

順調に小武の切断手術は終わったのだが、軍医の佐藤はふと
「あまり沢山の腕を切り落としたのでなあ」
「寺内君には悪いが実験台になって貰おう、どうね」
と思いつきで寺内の腕を切断することをやめた。

腕を切断した小武は順調に回復していくが、腕を残された寺内は、膿が出続け体調は悪化していくばかり。

もともと「馬」という綽名があったほど長かった寺内の顔は頬が痩せていっそう長くなり、蒼ざめた顔に髪の毛だけが伸び、幽鬼のような形相になった。
きっとこの時の小武は、「自分はついている」と思っただろう。

寺内を置いて先に退院した後、このようなことを思っている。
寺内の奴、どうしているか。小武は腕に副木をしている者を見る度に寺内のことを思い出した。退院したという話を聞かぬ以上、まだ膿が出続けているに違いなかった。
あいつも不運な奴だ。
寺内はなんとか無事に退院し、その後再開した二人だが、その時に見た彼の右腕に小武は動揺する。

小武は少し蒼ざめてマッチ箱をもった寺内の右手を見ていた。
たしかに生きている…
(中略)
小武は何故か取り返しのつかぬ失態を演じた気持にとらわれた。
小武は偕行社で事務仕事をする毎日であったが、ある日寺内が現役に戻ったという噂を聞き、さらに動揺する。

何かが大きく動き始めているような気がする。それが何か、しかとは言い表せない。しかし眼に見えないもう一つのものが少しずつ自分と寺内の間を引き離しているように小武には思えた。

この後、寺内はトントン拍子で出世していき、遂には総理大臣となった。


小武は、寺内より自分の方が優秀だったことを確信しており、腕一本でここまで差がついたことに怒り狂う。

輝かしい勲章、地位など多くの物を手にし、生涯を終えた寺内。
それとは正反対に、廃人と化し、周囲から狂人と言われ癈兵院で一人寂しくこの世を去った小武。

腕一本が、順番が、軍医の気まぐれが、彼らの運命を真っ二つに分けた。


私の眉間には、二針縫った傷跡がある。

母に「ピアノの練習をもう少しきちんとしなさい」と言われたのを聞かず、家を飛び出し公園で遊んだ。
その時に丸太から足を踏み外し、別の丸太の角に眉間をぶつけ、顔は血まみれとなった。

大病院に運ばれた。
完全に綺麗になるか、酷い傷跡が残るか、一か八かの自然治癒と、
安全だが必ず薄い傷が残る縫合か。

父は後者を選んだ。

母の言うことを聞き、公園に行っていなかったら…父が自然治癒を選んでいたら…
私はまた別の運命があったかもしれない。

しかし、傷跡は残ったが後悔はしていない。

この傷跡は私の宿命であり、きっとこれを後悔し出したら何かが崩れてしまうだろう。
後悔した瞬間、小武まではいかなくとも、私の精神も少し壊れてしまうかもしれない。

だから私はこの傷跡を受け入れ、自分には見えないものとして今日も平然と鏡の前で化粧をしている。